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● ナイジェリア難民:俺たちは動物じゃない、人間だ 絶望の闇に輝く命  (15/4/8 毎日新聞)


 2015年04月08日 東京朝刊

【写真】ボコ・ハラムから逃げる途中で生まれたイドリス・デピちゃんを抱くアイシャさん=チャド西部バガソラで

 西アフリカの大国・ナイジェリアの北東部でイスラム過激派ボコ・ハラムが暴れ回っている。家々を焼き、従わない住民を容赦なく殺害する。現在、約20万人が難民として周辺国に脱出した。隣国チャド西部バガソラの難民キャンプを訪ねると、人々は悲しみに打ちひしがれていたが、命の力強さを感じる出会いもあった。【バガソラ(チャド西部)で服部正法】

 ◇ボコ・八ラムから逃れ

 サハラ砂漠の南縁部「サヘル地帯」の砂地に、真新しいテントが点在していた。バガソラの町中から車で約15分の平原に広がる難民キャンプだ。ナイジェリア難民ら約5000人が収容されている。
 キャンプの住人が一気に膨れあがったのは、今年1月のことだった。ボコ・ハラムが1月3日、チャド湖の対岸にあるナイジェリアのバガ、ドロンバガに侵攻、町の大半を焼き尽くした。住民約2000人が死亡したとの推計もある。命からがら逃れて来た人々が収容されたのだ。

 バガで交易商をしていたカカ・アリザナさん(41)はその日の朝午前5時半ごろ、銃撃音を聞いた。何が起きたが分からず、事情を確かめようと外に出て、友人の家に向かった。

 直後に「ボコ・ハラムが来た!」という女性の声を聞いた。町に入ってきたボコ・ハラム戦闘員が家々を焼き、銃撃を始めた。慌てて自宅に戻ったが、両親と妻、16歳〜生後3カ月の6人の子供たちの姿が消えていた。

 バガには政府軍の大きな基地があったが「軍はいなくなっていた。走って逃げるしかなかった」。政府軍は退却していたのだ。

 湖岸へ走り、何とかピローグ(伝統的なカヌー)を見つけてこぎ出した。カメルーン領内の島に漂着するまで4日間、着の身着のまま、食料もなかった。

 「配給がなく、もう何日も食事を取っていない。俺たちは人間だ。動物じゃないん
だ!」。難民の援助機関に対する不満を興奮ぎみにぶちまけたが、行方の知れない家族の話になると、頭を振り「今も眠れない……」と、時折静かに目を閉じた。

 町は以前から恐怖に支配されていた。ドロンバガのタマネギ農家、ナシル・サイドゥさん(37)は昨年、医師の友人をボコ・ハラムによるとみられる攻撃で失った。「3人に襲われ、口の中に銃を突っ込まれて頭を吹っ飛ばされた。医師や学生といった教育のある者を殺すのさ」

 悲惨な体験談があふれるキャンプにも命の輝きはあった。ドロンバガから避難した女性、アイシャ・アルパジカルバさん(35)が生後約2カ月の赤ちゃんを抱いて、テントの陰で体を休めていた。

 アイシャさんはボコ・ハラムの襲撃を逃れ、夫と5人の子供とともにピローグで湖に乗り出した。一昼夜でチャド側の島に到達。島からバガソラのキャンプへとチャド当局が用意した船で運ばれる途中、産気づいた。船には約200人が乗り、とても混み合っていた。夫に陣痛を告げたが「我慢するしかない」と、心に決めた。それから4時間ほど耐えたころ、船はようやく寄港。上陸して約2時間後に出産した。

 母体や赤ちゃんの体調を気遣い、病院の手配なども協力してくれた「チャド軍に感謝している」という。アイシャさんは、当局者の提案で、赤ちゃんをチャド大統領の名前である「イドリス・デビ」と名付けた。

 イドリス・デビちゃんを眺めるアイシャさんの表情は柔らかだったが、ボコ・ハラムへの思いを聞いた時、強い言葉が返ってきた。「彼らのすべてを殺してほしい」。故郷や同胞を奪われた強い怒りが表れていた。

 ■ことば

 ◇ボコ・ハラム

 2002年にナイジェリア北東部ポルノ州で結成されたイスラム過激派。地元の言葉で「西洋の教育は罪」を意味し、全土にシャリア(イスラム法)の導入を求める。当初は格差解消などを訴えていたが、次第に過激化。3月にはイスラム過激派組織「イスラム国」(I S=Islamic State)に忠誠を誓った。カメルーン、ニジェール、チャドなど周辺国への攻撃も強めている。

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