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● 連載 「難民」  (12/6/15〜17 朝日新聞)


※ 紙面では難民申請者の名前が表記されていましたが、こちらではイニシャルに変更させていただきました。

 (上)ウガンダ逃れた男性   (中)面会続ける市民や学生   (下)「第二の故郷」に恩返し


(上)ウガンダ逃れた男性  祖国も認定も遠く
2012年06月15日

【写真】Mさんが暮らす部屋には、家族の写真が大切に飾られていた=大阪市住吉区

 JR天王寺駅前の歩道橋にほぼ毎日立っていた黒人男性を見かけなくなって1年ほどたった。首から下げた募金箱には、「難民支援」の文字。「日本にも難民がいることを知ってほしい」と話していた。

 名前はM、アフリカのウガンダ出身だ。日本で難民認定を求めたが、認められず国外退去処分となった。本来なら入国管理局の施設に収容されるのだが、入管に毎月出頭することなどを条件に、拘束を一時的に解かれている「仮放免」の身だ。

 聞いていた携帯電話に連絡し、大阪市住吉区の団地を訪ねた。台所と4畳半ほどの小さな部屋は、きれいに片づけられ、褐色の肌の子どもたちが並ぶ色あせた写真が飾られていた。幼いころに兄弟と撮った一枚だという。

 「1日立っていると足は痛くなるし……」。活動をやめた理由を、投げやりな調子で説明した。酔っぱらいにからまれたことや、警察官が来て署に連れて行かれたこともあったという。

   ◇   ◇

 日本語は話せないが、丁寧な英語で身の上を語った。ウガンダで1974年、裕福な家庭に生まれた。大学卒業後、首都のカンパラの大学で講師を務め、より給料が良い会社に就職した。その傍ら、05年に民主化を求めていた野党に入党した。

 その年の終わりから再三、複数の男に車で拉致され、組織について詰問されたり、活動を辞めるよう脅されたりした。腕に注射を打たれ、意識を失ったまま草むらに放置されたこともあったという。

 06年末、反政府活動家を一斉に逮捕するという情報を聞き、国外に逃れることを決意した。旅行会社に金を払い、日本の短期滞在ビザをとった。カナダや米国に行きたかったが、日本のビザが一番早く降りた。

 翌年、関西空港から入国。愛知県内の塗装工場などで働いた。初めての肉体労働だった。だが、08年3月、超過滞在の容疑で大阪入国管理局に逮捕された。そこで、難民認定の手続きをとったが、入管側はウガンダでの政治活動を疑い、出稼ぎのために来日したと判断した。

 茨木市の西日本入国管理センターなどに約9カ月間収容され、08年12月に仮放免が認められた。その後、天王寺駅などで、難民支援を訴える活動を約1年続けていた。

   ◇   ◇

 いまは一日中、部屋でCNNやインターネットを見て過ごす。日本にいる間、祖国で兄が暴漢に襲われ、まもなくショックで母親が亡くなった。Mさんの政治活動が原因だった。それ以来、家族は電話に出てくれない。

 祖国に家を2軒持っているので、その家賃を弁護士に送金させ、かろうじて暮らしている。難民不認定処分の取り消しを求めて、日本国と裁判で争っていることだけが、生きがいだ。

 昨年、法務省が判断した難民申請者(異議申し立てを除く)は2119人で、難民と認定したのは7人だけ。全国の入管施設には、難民と認められず、退去強制処分となった人たちが多く収容されている。

 難民たちは、祖国へ帰れば身が危ないと、帰国に応じず、収容が長びきがちだ。仮放免が認められることも増えているが、その間は、就労は認められない。

 Mさんは、網戸のない窓から入ってくる虫を追い払いながら、いらだたしそうに言った。「自分の人生に何の意味があるのか、分からなくなる時がある」

    ◇

 日本は「難民鎖国」と言われるほど、難民の受け入れには厳しい。国連が定める「世界難民の日」(6月20日)を前に、大阪に暮らす難民申請者や、彼らを支援する人たちを3回に分けて紹介します。

    ◇

 【キーワード】難民認定制度

 難民認定制度 日本は1981年、国連難民条約に加入。人種や宗教、政治的な理由で母国で迫害を受ける可能性がある難民を、保護する義務がある。難民かどうかは、入管側の調査を経て法相が判断する。認められず、国外退去処分となると、原則として入管の施設に収容されるが、裁判で争うなど直ちに送還できない場合、保証金を払うなどして仮放免が認められることもある。仮放免で暮らす外国人は、全国に数百人いるとみられる。

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(中)面会続ける市民や学生  入管の密室に風穴
2012年06月16日

【写真】西日本入国管理センターで、面会を終えた学生たち。敷地の門には
「許可のない取材を禁止する」の看板=茨木市

 JR茨木駅から北へ約2キロ、静かな高台に、西日本入国管理センターはある。

 ここにいる外国人の多くは、退去強制処分をうけながら、帰国を拒み、比較的長期にわたり収容されている。日本に妻子がいるか、祖国へ帰れば身が危ないという難民申請者が大半だ。

 2010年春、収容者がいっせいにハンストを決行した。体調が悪化している収容者たちが、仮放免を認められず、十分な治療も受けられないまま放置されている、と訴えた。

 「(解熱鎮痛剤の)バファリンを見ると、いまでも入管を思い出す」。ハンスト後、仮放免が認められたパキスタン人男性は苦笑いする。どんな症状を訴えても、入管の医師はバファリンを出すだけだった、と収容経験者らは口をそろえる。男性は収容中、腰の痛みが悪化して歩けなくなり、車いすに乗って仮放免された。その後、病院で診察を受けたが、ストレスが原因ではないか、としか分からなかった。

   ◇   ◇

 入管施設内の問題は、収容された外国人が送還されると、表面化しにくい。
「密室」の扉を開けたのは、市民や学生たちだった。大阪外国語大(現・大阪大外国語学部)と神戸市外国語大の学生を中心に結成された「TRY」は、06年から、ほぼ毎週、メンバーが収容者に面会している。

 TRYでは、これまでの面会で、名前や境遇、健康状態などを聞き取りながら収容者のリストを作っている。新しい収容者がいないかなど、常に更新しているので、収容者のほとんどの名前は把握している。

 ハンストの時も、メンバーらが施設内の詳しい状況を公表したため、事態は国会でも取り上げられた。

   ◇   ◇

 今月上旬、TRYのメンバーたちがセンターを訪れた。学生たちが面会する様子を取材したいと、事前に入管に申し入れたが、「保安上の理由」で許可されなかった。名前や住所を書けば、誰でも面会できるにもかかわらずだ。

 この日、集まったのは、すでに大学を卒業したメンバーも含め15人ほど。
大阪大1年の板倉美聡さんは、初参加だった。「難民というとアフリカや中東が思い浮かび、日本にいる難民は知りませんでした」

 板倉さんが面会したのは、イラン人の難民申請者だったという。イランでの拷問で痛めた脚が、収容中に悪化したといい、松葉杖をついていた。面会のおわりに、板倉さんは「収容されている人のために、私たち学生は何ができますか」と尋ねた。男性の返事は、予期しないものだった。「学生はお金もないし、仮放免の保証人になれないから……」

 だが、彼らのねばり強い面会は、西日本入管に様々な変化を生んでいる。

 西日本入管ではいま、保証人さえいれば、半年以上の収容はまれになった。
シャワーが毎日浴びられるようになり、職員からは、「おい」ではなく、名前で呼ばれるようになった。

 それでも、副会長の岸夏美さん(23)は、「常に監視を続けないと、密室のなかでまた何があるか、油断はできません」と話した。

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(下)「第二の故郷」に恩返し  支えられ 戻る笑顔
2012年06月17日

【写真】カフェのスタッフと話すGさん(右)。温かく受け入れてくれる日本人と出会って笑顔が増えた=大阪市北区

 大阪市北区の中崎町。古い建物を改装したカフェや雑貨屋が次々と開店し、若者に人気のスポットだ。一角にあるカフェ「朱夏」に最近、新しいメニューが加わった。「Gさんのカレー」(700円〜)。香辛料が調和した深みのある味は、ネパール人のGさん(49)にスタッフが教わった。Gさんは難民申請者だが、在留資格がない。

 カースト制度による身分差別が残るネパール。高位のカースト出身だったギリさんは、最も差別される立場の女性と恋に落ち結婚した。タブーを破ったことで、親族とその仲間から暴行され、殺害をほのめかす脅迫をうけた。

   ◇   ◇

 「外国ならどこでもよかった」と2002年、単身で来日。工場で働くなどしていたが、4年後に超過滞在だとして名古屋入国管理局に捕まり、茨木市の西日本入国管理センターなどに計2年以上収容された。

 仮放免の身で、難民申請は認められていない。「国に帰ったらどれだけ危ないか私しか分からない」。難民不認定処分の取り消しを求め、裁判で争っている。

 今年1月、Gさんは知人の紹介で、朱夏を経営する西尾純さん(46)と出会った。西尾さんは、その時のGさんの、おどおどした態度が印象に残っている。「すいません」と謝ってばかりで、自信なさげにみえた。

 途上国の支援などもしている西尾さんは、Gさんの生活支援を申し出た。
お返しにGさんは、ネパールの家庭料理をスタッフに教えるなど、できることで店に貢献している。

 5月10日、Gさんはカフェの手伝いを終え、自宅に帰る途中、携帯電話が鳴り店に呼び戻された。ドアを開けると、「ハッピーバースデー」の大合唱。
Gさんの誕生日を、スタッフがひそかに準備していた。「日本に来て、一番うれしかった」。最近、Gさんに少しだけ、笑顔が戻ってきた。

   ◇   ◇

 つらい体験をしたからこそ、誰かのために働きたい。そんな思いを持つ難民は少なくない。

 ミャンマー人のミョウ・ミン・スウェさん(43)は、東日本大震災の後、すぐに被災地へ駆けつけ、がれきの撤去などを手伝った。「ふる里を追われた人たちと僕らの境遇は、同じものを感じる」

 祖国で民主化運動に参加。91年、軍事政権の弾圧を逃れるため、大学を中退し、偽造旅券で来日した。04年、日本で難民申請したが、直後に入管法違反容疑で警視庁に逮捕され、有罪判決を受けた。収容された東京入管の施設では、手を骨折した際、病院へ運ばれるまで数時間放置された。いまも後遺症が残る。

 難民申請は一度不認定になったが、異議を申し立て、05年に認められた。

 07年度から関西学院大(兵庫県西宮市)が難民のために設けた奨学生制度の1期生として、国際政策を学んだ。「支援があれば、難民も能力をのばせるんです」。昨年、卒業し、現在は東京大大学院で、ミャンマーの民主化について勉強している。

 関学の奨学生制度ができる前は大学はあきらめ、ハローワークで紹介された職業訓練をうけて、IT関係の会社で働いていた。「つらいこともあったけど、日本は第二のふるさと。必ず恩返ししたい」

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