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● 安住を求めて 第三国定住の現場で(連載)
  (12/1/16〜19 朝日新聞)


 1)迫害の恐怖、少し消えた
 2)自立できる支援を模索
 3)苦しくても、家族と共に
 4)遠かった国が身近になる日


   1)迫害の恐怖、少し消えた

2012年01月16日 朝日新聞、夕刊

 「犬のほえる声がしても、身構えなくなった」
 ミャンマーからの第三国定住の難民として三重県鈴鹿市の椿(つばき)地区で暮らす男性(34)は語った。少数民族カレン族の出身。政府軍が故郷の村に来た時、犬がほえた。日本に来てから、当時の恐怖心がよみがえることが次第に少なくなった。
 自治を求めるカレン族と、ビルマ族を中心とした政権との間で60年以上にわたって内戦が続いてきた。
 カレン族というだけで射殺され、女性は強姦(ごうかん)されることがあったという。
 男性は17歳の時、政府軍に徴用され、銃弾の入った竹かごを背負って歩く「ポーター」を命じられた。
 暗闇の中、満足な食事もないままジャングルの山を登った。地雷が埋まっているかもしれない。だが後ろで軍人が銃を構えていた。「逃げたら撃たれる」。不安を感じながら歩いた。
 約1年後、タイとの国境を越え、近くのメラ難民キャンプに逃げた。数年後、そこで出会ったカレン族の妻(34)と結婚し、子どもを4人もうけた。
 故郷に帰れる見通しはなかった。第三国定住に手を挙げたのは、子どもたちにきちんとした教育を受けさせたいと思ったからだ。妻も「日本ならビルマから近くて良い」と賛成した。
 男性らは、メラ難民キャンプの他の4家族とともに2010年秋に来日。半年間の日本語研修の後、2家族12人が千葉県、3家族15人が鈴鹿市に移り、父親らは農業法人で「職場適応訓練」として働き始めた。
 11年春に軍政から民政移管したミャンマーの新政権は様々な改革に乗り出している。武装勢力カレン民族同盟と政府は停戦に初合意した。在日カレン民族連盟(KNL)副代表ソー・バラ・ティンさん(42)は「停戦合意はうれしい。すべての民族にとって銃を完全に手放せるような平和が訪れるか、注意深く見守っていきたい」と話す。
 だが鈴鹿の男性は日本語のニュースがわからず、改革や停戦合意を知らなかった。「信じられない。ビルマには難しい歴史があった。カレンとビルマはこれからどうなるのか」
 昨春から5人の子どもたちが鈴鹿市立椿小学校に通い始めた。学校の廊下には各国の旗、玄関には英語や中国語などのあいさつ文が張られている。旗をミャンマー国旗にするか、あいさつをカレン族のものにすべきか。伊藤嘉昭校長は難民の母親たちに尋ねた。「カレン族だからカレン語とカレンの旗がいい」
 廊下の壁に、カレンの旗と、「ウォラーゲー」(おはよう)、「ターブル」(ありがとう)のカレン語が加わった。難民の子どもたちが自ら書いた。

 第三国定住制度で来日したカレン族の家族。日本になじむまで様々な課題があり、受け入れ側も試行錯誤が続く。現場を追った。
 (藤崎麻里)

◆キーワード
 <第三国定住> 紛争や政治的迫害から周辺国に逃れた難民を第三国が受け入れ定住させる制度。日本政府は試行的に2010年度から3年間でメラ難民キャンプの90人を受け入れる計画だ。

【写真説明】
職場適応訓練を受けた農業法人でシイタケの菌床を袋から手早く取り出し、並べていくカレン難民の男性ら
椿小学校の玄関口の壁には、カレン語のあいさつも加わった=いずれも三重県鈴鹿市

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  2)自立できる支援を模索

2012年01月17日 朝日新聞、夕刊

 カレン難民の3家族が職場適応訓練を受け、就職した三重県鈴鹿市の農業法人の休憩所。土曜の午後、難民の5人の子どもが集まる。地元の元小学校教員三浦尚子さん(58)に宿題を教わるためだ。三浦さんは「算数はわからんかったらまず絵に描いてみたらいいんだよ」と声をかける。
 昨年11月まで、農業法人理事の川森貴子さん(38)や職員が子どもたちを教えていたが、農繁期の冬になると時間が取りにくくなった。川森さんが市や市教委の担当者に伝えると、三浦さんを紹介してくれた。
 難民の人たちが日本の生活に慣れるのは大変だ。すぐに乗り物に酔ってしまう。現金自動出入機(ATM)を使うのも一苦労。どう支えればいのか。川森さんは不安や悩みがあると市や市教委に相談した。「難民の人たちも、私も本当に地域に支えられている」
 鈴鹿市は、関係部署に週1回のリポート提出を義務づけ難民の状況を把握するよう努めた。市教委は小学校に講師を1人増やし、さらに非常勤講師も充てた。
 地域では当初、難民受け入れに不安の声もあった。市中心部では約20年前から日系ブラジル人らが増え、ゴミ出しや騒音など、生活習慣の違いから問題が生じたことがあったからだ。
 だが、地元自治会長の辻四十一さん(68)らは「日本人か外国人かにかかわらず、定住には周りが受け入れる姿勢が大事」と、受け入れに前向きだった。今年度の子ども会と自治会費は無料にした。同じ保育園に子どもを通わせている日本人の母親は難民の女性のことを「ママ友」と呼んだ。
 農業法人では職員が専従で難民の世話係になった。子どもの具合が悪くなれば車で病院へ連れていった。
 だが、難民の定住支援について外務省から委託されているアジア福祉教育財団の難民事業本部(RHQ、本部・東京)は川森さんにこうも助言した。「あんまり特別扱いはせず、なるべく自立させてください」
 それでも来た当初は小学校や保育園からの配布物も十分に読めず、9人の子どもたちが安心して通える状態にする必要があった。川森さんは「とても手助けなく、暮らせる状態ではないと思った」と戸惑う。
 RHQの難民支援の枠組みは1970年代後半、当初想定の500人を超え、1万1千人に上ったインドシナ難民受け入れの際に作られたものだ。従来の支援でも、語学の習得と自立の難しさが指摘されてきた。
 今春から職場適応訓練が始まるカレン難民の第2陣には、自立をより促す研修にしながら、場合によっては地域で支援員を募集して充てる仕組みも検討する。
 鈴鹿でも自立に向けた努力が進む。昨秋、初めて申請した年末調整。川森さんは、難民の女性たちにすべて任せてみた。
 名前はカタカナ、住所は漢字で。3人の女性は、記入に間違いがないか、互いに見せ合いながら書き込んで仕上げた。
 川森さんは「定住は1年や3年の話ではない。せっかく鈴鹿に来てくれたのだから、子どもたちが将来やりたい道を模索できるような環境を最大限作ってあげたいんです」と話した。(藤崎麻里)

【写真説明】
農業法人で勉強するカレン難民の子どもたち。質問があるとすぐに三浦さん(右)らに尋ねていた=三重県鈴鹿市

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  3)苦しくても、家族と共に

2012年01月18日 朝日新聞、夕刊

 カレン難民の夫婦は昨年9月、東京の弁護士事務所で初めて記者会見し、疲れた表情で語った。
 「日本での暮らしに不安を感じる」
 難民キャンプとは全く異なる農業のやり方、往復2時間の保育園通い……。千葉県の農業法人で半年間の訓練を受けた2家族は雇用契約を結ばなかった。
 会見した夫婦の家族はその後、仲間が多く住む東京での生活を希望したものの、適当な住居がなく、いったんは一時滞在施設に住んだ。支援者が探してくれた時給850円のクリーニング店の工場で働き始めたのは11月になってからだ。
 千葉県から都内に移ったもう一つの家族も、都内の2Kのアパートに引っ越し、夫(37)は12月半ばからリサイクル工場で時給850円で働いている。5人の子を養う生活費と家賃は月15万〜16万円。妻(29)も働くつもりだが、末の3歳児が入れる保育園が今も見つからない。
 妻は子どもの頃、カレン族の独立闘争で戦っていた父が政府軍に殺された。「国の中も、難民キャンプも、日本も大変。生活できればいいと思って、がんばってはいるけれど……」
 日本人の支援者は、生活保護を受けることを提案した。だが夫婦は拒んだ。「日本政府のお金を使いたくない。働きたい」
 支援に携わったNPO法人難民支援協会の常任理事、石井宏明さん(51)は「大家族を養いながら、都市部で住居を確保して暮らせるようになるのは大変だ」と指摘する。
 だが今回の第三国定住は「家族連れ」が、選ばれる条件の一つ。法務省の担当者は「家族単位の方が互いに相談し合えるので孤独感が少ない。犯罪に巻き込まれる可能性も少なくなると考えた」と説明する。
 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)前駐日代表、滝沢三郎さん(63)は「今のような流れで自立を前提とするなら、育児との両立も課題になる。家族連れに限らず、もっと個人を見ながら幅広く受け入れられるように基準を緩和するべきだ」と指摘する。
 日本国内で、難民の人たちが設立した自助組織「難民連携委員会(RCCJ)」代表のマリップ・セン・ブさん(47)は「長く日本で暮らしてきた私たち先輩の知恵も借りてほしい」と話す。少数民族カチン族の難民として約20年前にミャンマーからきた。「まずは自分たちのなかでリーダーをつくって」と助言する。
 「学校」。カレン難民の家族が住むアパートの壁に習字があった。「私が貼ったんだよ」。誇らしげに言う長女(12)はもう1枚「希望の春」も見せてくれた。長男(17)は何冊もある大学ノートの1冊を開いた。左に日本語、右にカレン語。自分で作っている辞書だ。「もっともっと勉強したい。大学に行きたい」
 家族連れだと乗り越える壁は確かに多い。だが、子どもたちの目は輝いていた。(藤崎麻里)

【写真説明】
(上)「希望の春」と書いた習字を広げたカレン難民の子ども。母(左)は「『の』だけ読める」と話した
(下)カレン難民の少年が大学ノートにつくっている日本語とカレン語の辞書=東京都

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  4)遠かった国が身近になる日

2012年01月19日 朝日新聞、夕刊

 「カレンのお団子はモロイーボー。ココナツがついているんだって。どんな味がするのかな」
 5人のカレン難民の子どもたちが通う三重県鈴鹿市立椿小学校。昨年末、家庭科の授業で、宮崎みさ教諭が問いかけた。
 難民の男の子が「ちょっと甘くておいしい」と答えると、日本人の子どもたちは「食べてみたい」。
 あんこやみたらしの団子も取り上げた。宮崎さんは「みんな同じお団子だね。アジアの文化やね。いろんな味が楽しめるのね」。
 同校では当初、子どもたちが難民だとはあえて伝えず、カレン民族と簡単に説明しただけだった。ほとんどの教員が日系ブラジル人の子を教えた経験があっ た。「子どもはどの国の子も同じ」という思いから、難民であることを特別に意識しなかった。
 休み時間はサッカー、登下校時は手遊び。難民の子たちは一見、溶け込んでいる。だが、「言葉が難しい」と遊びの輪に加われないこともあった。「『前の学校は』と聞いてもよくわからなかった」と戸惑う日本人の子もいた。
 難民の子の家を伊藤嘉昭校長らが訪れた時だ。「先生、メラ(難民キャンプ)だよ」と元気に写真を見せてくれた。この子たちが難民であることにもっと向き 合わねばならない。そんな機運が高まり、夏休みに職員室でカレン難民や海外での難民の受け入れ方を学ぶ講習会を開いた。
 秋にはカレン語の会話を聞く授業をした。感想文には「外国へ行ったら言葉が通じません。私も力になりたい」などの声が寄せられた。宮崎さんはカレン文化を授業に織り込みだした。
 難民たちが職場適応訓練を受けた農業法人の専務理事、川森浩さん(50)も初めは「全く(難民について)知らなかった」と打ち明ける。受け入れる前は 「農業の担い手はどうなるのか」ということに意識があった。だが自分たちを頼りにしている子どもたちを見ると、「放っておけない」と思う。
 最近はミャンマーのニュースをよく見る。「彼らが来たからこそ、鈴鹿の人たちが、遠かった国を気にしている」
 長野県松本市で昨年秋、「官民で連携して難民受け入れの松本モデルを目指したい」と協議会ができた。
 地元出身の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の前駐日本代表、滝沢三郎さん(63)をきっかけに、高校時代の仲間らが関心を深めた成果だった。
 10月には講演会もあった。講演者の一人は、オーストラリアから来たカレン族出身のセイン・ナントゥ・クヌーさん(51)。自身も難民で、今は豪州に定 住する難民や移民向けの語学教育と定住プログラムの専門機関でコミュニティーづくりの指導員をしている。
 「キャンプなど楽しめる場をつくりながら、難民が心を開ける環境をつくることも大事なんです」と説明すると、会場からは「それならできるかも。難民と聞くと構えたが、少し安心した」との声が上がった。
(藤崎麻里)=おわり

【写真説明】
地区の祭りに参加し、日本人の友達と楽しそうに話すカレン難民の子ども(右)=三重県鈴鹿市

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